第45話
「雪」

2月になった。留学生活が始まってもう半年が経つ。英語力が伸びているのかどうなのか、自分では分からなかったが、デニーが借りてきたビデオ「キックボクサー」を家で観ていたら、半分くらいは理解出来ていた。

英語力向上に向けて、もう少し難しい授業を選択した方がいいのではないかと思い、あまりにも簡単すぎる Algebra U(代数学)は、コンピューター・テクノロジーに変更してもらった。授業変更は案外厄介である。カウンセラーに相談し、納得してもらわないと変更が出来ないのだ。でも、僕はだいぶ変更してもらっていた。
アメリカ文学→応用コミュニケーション(比較的簡単な国語のクラス)
演劇→ESL(英語を母語としない人の為の英語クラス)
アメリカ史→コーラス(合唱)
代数学→コンピューター・テクノロジー
他にタイピング、フランス語を履修していた。コンピューター・テクノロジーのクラスは、ロータスやエクセルなどを使っての授業で、僕は途中からの履修だった為、皆より遅れをとっており、追いつく為に本を読まなければならなかった。訳が分からず、途方に暮れた。「やっぱりコンピューター・テクノロジーじゃなくて、世界地理の授業に変更したい」とカウンセラーに申し出たのだが、あっさり「もう遅すぎる」と却下されてしまった。

2月3日(金)、ランチが終わり、フランス語の授業が始まる前、放送で呼び出された。行くとデニーとダラスが居た。健康診断を受けなければならなかったのだ。この日は学校を早退した。車の中で、ダラスがドイツ人の先生にドイツ語を教えてもらったと言い、幾つかのフレーズを披露したのだが、どれもこれもフランス語だった。
「それはドイツ語じゃなくてフランス語だよ」
「違う、ドイツ語だよ!」
言い張るダラス。僕はフランス語を勉強しているのだから、簡単なフレーズなら理解出来るのだ。しかも、日本の高校では2年生からドイツ語が必修だったので、ドイツ語の簡単な単語や音も知っていた。間違いなくダラスの言うフレーズはフランス語だった。だが、僕がどれだけ言ってもドイツ語だと言い張る。運転しているデニーが横から、
「ダラスの先生はドイツ人なんだ」
と、我が息子の言うことに間違いない、という顔で僕に言った。そんなことに本気で怒っても仕方ないので、その会話は終わりにさせた。まったくデニーまで・・・と、内心苛ついていた。

夕方家に戻ると、ベリンダに「掃除機をかけなさい」と言われた。するとデニーがベリンダに「まずお前が部屋を掃除しろ!」と怒り口調で言った。珍しく素直に、ベリンダが2階にある自分の部屋を掃除し始め、僕は1階のリビングに座っていた。すると電話が鳴った。前日、ベリンダが「私が家にいる時、あなたは電話とらなくていいから」と言っていたので、僕はその通りに電話をとらなかった。すると、ベリンダがけたたましく下に降りてきて、
「電話とらないならここにいるな!」
と呆れ顔で怒鳴った。昨日はとるな、今日はとれ。上にも電話があるというのに、なぜ自分でとらなかったのか。意味が分からない。
「ドイツから帰って来た弟からの電話だったはずなのに!」
知ったことか!

この週末、ダラスは母親の元に行くことになっていた。二週間に一度、母親と過ごせる貴重な週末だ。ところが、ダラスの母親は「忘れていて」ダラスを迎えに来なかった。忘れられたダラスは泣いていた。

家にはベリンダの弟夫婦が来て、1泊した。奥さんに「アメリカは好き?」と訊かれ、本心ではなかったがイエスと答えた。すると、奥さんは「ベリンダと一緒でも?」といたずらっぽく言ってきた。そして「デニーは好き?」と続いた。本人たちを目の前にして、イエスとしか答えられない下らない質問をなんでしてくるのだろう、と内心ウンザリしてしまった。
「彼はどうしてアメリカに来たのかしらね?」
「彼は家に帰りたいんだよ」
弟夫婦がそう言っていた。それは僕のことだろうか?英語の聞き取りが間違っているのだろうか?

日曜日の夜はベリンダの友達が2人やって来た。大学の勉強会を家でやることがよくあったのだ。僕は自分の部屋に居た。そして、夕食には呼ばれなかった。10時頃、赤いきつねをひとりで食べた。

月曜日は朝から気分がすぐれず、ESLの授業の最初からバートン先生ともうまい具合に波長が合わなかった。英語の読み物を渡され、目を通すと難しく感じた。
「こんな難しいものは読めません」
「何言ってるの、読めるでしょ。難しい単語があったら訊きなさい」
「難しすぎます!自分のレベルよりハイレベルなことをやっても身につかない。このプリントで勉強するのは無駄だと思います」
「コウ、そんなことはないでしょ!あなたがそう言うのは、ただやりたくないからでしょ?」
「そんなことない!もっと自分のレベルに合ったもので勉強するべきであって、こんなに高度な文章を読んで何の意味があるんですか?・・・ミリン、そう思わない?」
隣にいたインド人のミリンが怯えながら僕たちのやりとりを見守っていた。いつもなら何かしら口を挟んでくるミリンが、ニコリともせず困った顔をしていた。
「じゃあやめなさい。これは読まなくてもいい!」
結局、僕は読んだのだが、後になって、先生に向かってそんな口を利いたことをひどく後悔した。明日、先生に謝ろうと思った。

夜は雪が降った。1年中温暖なはずのアメリカ南部に雪が降るなんて。雪の対策がされていないこの辺りでは、雪が降ると学校が休みになる。僕は祈った。どうか、雪が止みますように・・・。学校が休校になりませんように・・・。

トリーが僕のことを初めて「He is my brother.(コウは私のお兄さん)」と言った夜、雪はこんこんと降り続け、翌朝、スクールバスはやって来なかった。

第46話へ



留学記目次