外人・外国人・外国の人

高校に入学したての頃、米国から来ていた英語教師が、何人かで食事をしている時にこう訴えた。
「“ガイジン”という言葉は使うべきではない。日本人は、“ガイジン、ガイジン”と言うけれど、ボクは一己の人間でありアメリカ人だ」
その時妙に納得した僕は、それ以来「外人」という表現を使うのを一切止めた。

“ガイジン”と呼ばれて不快感を覚える外国人は多く、その表現自体が「差別用語」であり、更には「放送禁止用語」でもあることは、あまり知られていないのではないかと思う。過去に日本語教師をやっていた僕の知人でさえ“ガイジン”という表現を使い、「知らなかった。でもそんなこと(差別用語であるということ)は認めない」などと言っているくらいだ。英語教師に言われて以来、他でも「ガイジンと言うのは止めましょう。“外国人”もしくは“外国の人”という言い方が適切です」という(日本人の)主張を聞いたりして、殊更“外人”という表現については敏感になった。

何気なく使われる“外人”という言葉は、島国で単一民族国家に暮らす日本人の意識をよく表していると思うが、「外の人・違う人・仲間じゃない人」という意味が含まれる為、実際言われる身の立場となると「疎外感」を感じてしまうそうだ。“外国人”という言葉は、「外国の人=日本人でない人」という意味なので、差別的な表現にはならない。

確かにそうなのだ。英語では“foreigner(フォーリナー)”、フランス語では“etranger(エトランジェ)”と訳されるが、僕が外国で“foreigner”や“etranger”と表現されたことは皆無だ。言われるとすれば「日本人」という表現だ。

とかく日本では、「日本人とそうでない人」という括りをすることが多い。「外人は○○だから」とこじつけを言っても、世界各国、多くの民族が存在しているのに、「外人」という一言だけで括るのは本当におかしい。また、“外人”というと、主に“アメリカ人”もしくは“白人”をイメージしてしまう日本人が多いのも事実。白人好きの日本人が「外人が好き、外人と結婚したい」と言った時、僕は敢えて「ということは、中国人やフィリピン人も外人なわけだから、それでもいいということだよね?」と切り返す。

“外人”という言葉が差別用語である、ということ以前に、日本人の“外国人”意識はおかしい。日本人が書いた海外滞在記や海外旅行記を読むと、たまに混同してしまう。例えば、イギリス旅行について書いている文章の中に、
「とある店に入ったら、外人ばかりだった」
という表現があるとする。僕はこれを読んだ時、その「外人」とは、「日本人である自分」を含めた、イギリス人以外の人だと解釈する。ところが、読み進んでみるとそうではないことに気がつく。筆者の言う「外人」とは、イギリス人以外ではなく、日本人以外のことであり、しいてはイギリスにおける「イギリス人」のことを指しているのだ。意識としては、自分(日本人)から見た「外人」。しかしそれはおかしい。イギリスにおける日本人こそが「外人(外国人)」なのに。

僕がフランスに留学していた時、「学校のクラスは外人ばかり?」と聞かれた。フランス人は一人もいないクラスだったので、「そうだ」と答えたのだが、聞き手の意味する「外人」とは、「フランス人以外」ではなく「日本人以外」という意味であったことに、僕は気づいていた。

国際社会だの国際化だのと叫ばれて久しいが、案外「灯台下暗し」で、なかなか世間一般には浸透しない表現問題のようだ。それでも問題視する人は多い。インターネットで検索してみると、熱く議論を交わしていたりする。訴えている人もいる。これからの時代、もっともっと叫ばれるべき問題だと思うのだが・・・。

参考までに↓
http://www.jinken-net.com/old/tisiki/gozonji/1999/tisikia30.html


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