英語優位

米映画「ロスト・イン・トランスレーション」には、米国や米国人から見る日本や日本人に対する「悪い偏見」が随所に出てくる。はっきり言って、何が言いたいの?という映画だが、「偏見」の他にも腹立たしく描かれているのが、“英語優位”のような箇所だ。英語が出来るのが当たり前、英語が出来ないのはオカシイ、といういかにも、そちらの国の“ありがちな”態度が映画の中でも描かれていて、苦笑すると共に腹の虫が疼いた。

“英語帝国主義”という言葉を知ったのは大学の頃だ。教授の影響もあるが、やはりその頃から僕の中にもそういうことに反発する意識が芽生えてきた。英語が“国際語”だなんて言われているけれど、「国際語」ってどういう意味? いかにも、英語が非常に優れていて、価値の高い言語のような言い方をされているけれど、どんなに使用人口の少ない言語でも、その「価値」に違いはない。英語は価値が高くて、日本語は価値が低い、なんていうことも有り得ない。そもそも、“英語帝国主義”と言われるように、英語がここまで世界中に広まったのは、植民地支配による歴史的背景があるのであり、英語そのものの価値が“極めて高い”ということではない。更に、その“世界共通語”だの“国際語”などと言われている英語を習得する為に、日本人を含む非英語圏の人達は、時間もお金も能力も費やしている。一見、英語圏に生まれた人達と比べると“不平等”にも思えてくる(違う角度から見れば、一概に不平等とは言えないが)。

前出の映画の中には、日本人がLとRの発音が出来ないが為に、主人公(米国人)が勘違いをしたりするシーンが幾つかあり、しまいには「日本人はなんでLとRの発音が出来ないんだ?」などと平然と言ってのける。更には、寿司屋のカウンターで日本人の寿司職人に英語で話し掛け、ただ笑顔でいるだけの職人に対し、なおも自分達の英語での会話について意見を求め続け、「分かってるのか?・・・彼は笑っているからきっと賛成なんだ」などと言う。この映画に出てくる人達は、どこに行っても英語を通していた。悪びれもせず・・・当たり前のように。

非英語圏において、悪びれもなく英語を押し通すのは失礼極まりないと思う。そして通じるのが当たり前だなんていう考え方も間違っている。ここ日本において英語は公用語ではない! 非英語圏にて、英語で話し掛ける際はまず「英語を話せますか」という一言が必要であり、それが礼儀であると思う。非英語圏の人が英語を話せなくてもなんら問題はない。

そもそも「英語は世界共通語」という概念さえどうかと思う。「共通語」というからには、世界中どこでも通じるということだ。だがしかし、実際には英語が通じないところなんて山のようにある。もはや、その方が多いのではないかと思う。ヨーロッパの、しかもスペインやイタリアでさえ、英語など丸っきり、何の役にも立たない町は沢山あるのだ。それでも彼らには何ら問題はないはずだ。

確かに英語は便利である。知っていて損はない。英語が話せれば、コミュニケーションが出来る人が増えるのも事実だし、外国(非英語圏)に行って役に立つことも多い。非英語圏の人と「英語」を使って意思疎通を図ることも出来る。それだけ多くのところに英語が浸透している。そして就職においても、他言語よりも英語が重視されることも事実のようだ。だがしかし、「世界共通語」なんかではない。

日本人は“英語コンプレックスだ”なんて言われているけれど、そんなもの持つ必要などない。英語の“え”の字も知らないからといって、恥じることもない。日本にいるのに、外国人に英語で話し掛けられてオドオドする必要もない。聞いてる方が「堂々」していて、聞かれてる方がオドオドするのも変な図である。

何だかんだ述べたが、今の「英語を学びましょう」という風潮はいいことだと思う。外国文化や外国語を学ぶことによって、自国の文化や母国語など、見えてくるものは沢山あるのだ。

今回言いたかったのは、「英語優位」「英語帝国主義」を気取って、どこの国に行っても(母国語である)英語で押し通し、その国の言葉を学ぼうともせず、平然とした態度を取る某国民がやたら多いことに辟易していることだ。映画でその苛立ちを思い出してしまった。一部ではあるが、英語を解さないことでバカにする態度を取る人も中にはいる。そんな人は無視するに限るが、やはり、「英語優位」の考えには強い反発を覚えてしまう僕なのであった。


怒!

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