第71話
最悪!日仏交流会開始

ブザンソンにある仏日協会と、日本のとある地方都市G市の日仏協会は姉妹提携をしており、毎年、交互に互いの町を行き来して交流を深めていた。今年はG市の人たちがブザンソンに来る年ということで、僕たち日本人学生はボランティア通訳として参加した。

4月23日(金)、ブザンソンからバスでスイスの小さな町にある空港に向かう(ブザンソンはスイスに近い)。G市の皆さんをお迎えし、そこからまたバスでモントノワというフランスの小さな村へと向かった。今日から2泊3日でホームステイ。

今回、G市からやって来た人たちは、ほとんどが親子連れで、小学生、中学生、高校生が中心、そしてその親、総勢約30名程の団体だ。ホームステイは、基本的に子供が2人組になって一家族のところに泊まる。我々日本人学生は通訳として、各家庭に割り振られるのだが、8人しかいないので全ての家庭に通訳がつくわけではなかった。G市側の人数が圧倒的に多いのだから。僕は中学2年のAという男の子と一緒にステイすることになった。気軽に構えていた僕は、彼のあまりの消極的な態度に辟易してしまった。何を以ってしてもとにかく無口。笑顔ひとつ見せない。ホストファミリーが「シャワー浴びる?それとももう寝る?」という問いに対して、僕が訳してあげても、ウンでもなければスンでもない。どっちにすればいいのか、自分で決められない様子なのだ。僕はおろか、ホストファミリーはとてつもなく不安そうな顔である。

確かに中学生は微妙なお年頃。だが、何にも自分で判断出来ないというのも問題アリではないか?それにしても、小学生たちのところには、誰も通訳が付いていない。どうやってコミュニケーションを取るのだろう?と、ささやかな疑問が湧いた。

翌日、午前中は学校で交流会。午後はモントノワ巡り。小さな村だが、一応観光である。17世紀に建てられた古い家が残っていたりする。夜はパーティー。ホストファミリーの子供(小学生)が、Aと一緒にいようと何かと話しかけようとするも、Aは無視して日本人仲間のところに行こうとする。当然の如く、子供は悲しい思いをする。僕に「Aは何か探してるのかな」とポツリ言いにきた。まったく健気な子供である。そこで僕はAに声をかけた。
「そんな落ち込んだ顔してたら家族の人が心配するし、楽しくないんだって思われるよ。もっと考えて行動しろ。分かるよね?中学生なんだから」
しかし僕がそう言ったところで、難しい年頃の彼がすんなり積極的になるわけではない。ただ、最低限の気遣いはしてほしかったのだ。現に、ホストファミリーの人たちは心配そうにしていたのだから。

昼食の際に近くに座っていた小学生グループに、僕は何気なく訊いてみた。
「ねぇ、ホームステイおもしろい?」
「おもしろい!!すごい楽しいよ」すこぶる元気である。
「どうやってコミュニケーションとってるの?」
「身振り手振り。あとフランス語を教えてもらってる」
さすが子供である。言葉が通じなくとも、何とかしてその場に溶け込もうとする。高校生は高校生で元気一杯、ホストファミリーと楽しそうにしている。中学生が一番難しい。

4月25日(日)。モントノワ滞在最終日の今日はエスカルゴ祭。どうやらこの村はエスカルゴで有名らしく、毎年恒例の行事なのだそうだ。僕は、こんなに美味しいエスカルゴは初めて食べたと思うくらい感激した。それにしても、Aは相変わらずの態度で、ホストファミリーと彼の間を取り持つ僕はストレスで一杯。たったの3日間なのに。祭で賑わっている村を歩いている途中、日本人学生仲間と会うと「どうしたの?すごい疲れた顔して!」と盛んに言われた。

夕方になる前にモントノワを発つ。G市組の皆さんは、大泣きしながらホストファミリーと別れを惜しんでいた。たったの2泊3日なのにそこまで泣けるものか?!と僕は驚く。僕も2泊3日の短期タイプから1年弱の長期タイプまで、ホームステイはかなり経験しているが、別れ際に泣いたことなど一度もない。しかし、これも一期一会。素晴らしいではないか。当然の如く、Aはシラーッとしていたが。最後の最後まで僕は両方に気を遣い、クタクタ。疲れすぎて、珍しくも夕飯を半分残してしまった。

G市組の皆さんと一緒にモントノワからブザンソンまでバスで帰った。隣に座ったG市のおばさんにブザンソンでの生活について訊かれた。
「アパートに住んでるんです」
「ひとりで?」
「いいえ、アメリカ人学生と」
「あらぁ!アメリカ人と?いいわねぇ」
来た来た来た!!・・・おばさんは続ける。
「アメリカ人と暮らせていいじゃないの〜。フランスで、フランス語と英語と両方学べるわね!」
「あ、いえ、僕フランスでは絶対に英語は話しませんから」
そう言った途端、「何なの、この子」という軽蔑の眼差しを僕に向け、それっきり何も質問してこなくなった。結構結構。

フランスでアメリカ人とアパートをシェアしていると言って「羨ましい」とか「いいな」などと言うのは日本人くらいだった。大抵のフランス人は「えっ?」と表情を曇らせながら「じゃあ、いつも英語で話してるの?」と十中八九、そう訊いて僕に同情する。実際のところ、フランス語オンリーで、英語では話していなかった。アメリカ人と聞くとすぐに「じゃあ英語ばかり話してるの?」となる位、彼らがどこでも“国際語”=英語を通そうとする性質をよく知り“謙虚じゃない”と感じるか、アメリカ文化に毒され英語を通すことが何ら不自然でなく、カッコいいと思い、それが別におかしいことではない、相手の文化を尊重していないことでもないと思うかの違いである。

そもそも、なんでフランスにいるのにアメリカ人と英語で話さなきゃいけないのか。そしてなぜそういう発想が生まれるのか理解し難かった。確かに、アメリカ人はどこの国でも英語を通す人が多い。フランス語を学びに来ているのに、挨拶言葉から何から何までフランス語ではなく英語で通す人のなんと多いことか!“世界中どこでも通じる”(と思い込んでいる)英語を、アメリカ人とはフランスにおいて話したくなかったし(英語で話しかけられてもフランス語で返すようにしていた。相手はフランス語を解するのだから)、どこでも自分の“母語”を押し通そうとするその気質が嫌だったし(日本人がアメリカで日本語を押し通したらどうなるか?)、そして何よりも、互いがフランスにいて、フランス語を解し、フランス語を学びに来ているのに、英語を話すなんてこと、僕はとにかく嫌だった。幸い、同居人のアメリカ人ポールはフランス語がベラボーに上手かったので、英語での会話になることはほぼ皆無だったが。

始まったばかりの“ブザンソン&G市”の交流会だったが、これから様々な問題が発生し、双方気分を害し、険悪になっていく。そして間に入っている我々通訳ボランティアである日本人学生は、板挟みに遭い、誤解も生じ、G市側との関係が悪化していく。Aが喋らないだの、バスで会話したおばさんがどうだの、そんなもんは屁でもなかったのだ。

第72話につづく

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