第15話
アメリカン

同居人となるアメリカ人青年の名前はポール。ひたすら感じよく挨拶され、驚くくらい綺麗なアクセントのフランス語を話し、妙に口調が丁寧だ。合わせて僕も丁寧に話す。フランス語には、英語の“you”(あなた)に当たる言葉が、“tu”(チュ)と“vous”(ヴ)の二種類あり、前者は親しい者同士が使う「君」、後者が目上の人に対する「あなた」と、複数の「あなた(君)たち」という意味を持つ。同い年なのに“vous”で会話をするのは、どことなくおかしい。僕はいつまで“vous”を使うんだろう、と思ったが、ポールがすぐに「“tu”で話していい?」と提案してきたのでホッとした。
「コウ、君のフランス語は日本人にしてはアクセントが綺麗だね」
「いやいや、ポールの方こそアメリカ人のあの独特な強いアクセントがなくて、物凄く聞きやすいし、しかも正確でフランス人並じゃない?こんな綺麗なフランス語を話すアメリカ人には初めて出会った」
「あのアメリカ訛りのフランス語は好きじゃないんだ。以前、グルノーブルに1年間留学していたから、その時にフランス語を習得した」
どうやら、僕の懸念は懸念で終わりそうだった。日本のことについては全くの無知、東京しか知らないと言うので、大阪や京都くらい知っているでしょう?と訊くと、知らないと言い(フランス人ならば大抵知っている)、更にいかにもな愛想の良さが、うわべっぽくてアメリカ人らしいと思ったが、謙虚そうだし、悪い人ではなさそうだ。それに、フランス語がネイティブ並なのには驚いた。僕は早速、ポン子に手紙で嬉しい報告をした。

・・・しかし。そうは問屋が卸さず。最初のうちこそ、2人で何時間も喋ったりしていたが、日が経つにつれ、ほとんど何も話さなくなっていく。周囲からもいい話を聞かなくなる。そして、彼に関する様々な憶測が流れるようになった。
「あのフランス語力はグルノーブルで1年間勉強した成果だと言っているが、どう考えても1年の滞在であそこまでにはならない。実はもっと若い頃、5年くらいフランスにいたという噂がある。では、なぜ彼はそんな嘘をつくのか?見栄か?」
フランス人でさえも疑問に思う謎であった。更には、彼のプライベートに関する噂などが、「同居人」である僕の耳に自然と入ってくる。僕はポールのことはほとんど何も知らなかった。すると、相手は「君は同居人なのに何も知らないんだねぇ」と驚く。
「関心がない」
日頃、会うこともほとんどないし、ゆえに話すこともないので、僕は友達という意識もなく、ただの同居人と割り切っていた。それでも部屋を2人で借りている以上、お金の問題などが絡むこともあり、険悪さからは逃れられなかった。

さて、いよいよ10月12日(月)から学校が始まったがこの一週間は授業がない。初日はレベル分けテストのみ。「読み・書き・聞く・話す」の全てのテストが1日がかりで行われた。

会話力テストは先生と一対一で話す。途中、「フランスの嫌いなところは?」と訊かれた。いろいろあるけれど・・・パッと思い付いたその中のひとつとして、「道路が汚い」と答えた。「例えば?」と更に問われ、
「ゴミが落ちてるとか・・・あと・・・」
そこで僕は“犬のフン”と言いたかったのだが、“フン”という単語をフランス語で知らなかった。面接の試験で沈黙は禁物。そこで僕は先程から頭の中をちらついているけれど、言ってはイケナイ言葉を思い切って出すことにした。
「あと・・・犬の“クソ”が落ちてることです」
英語で言えば“shit”に相当する汚い言葉。フランス語では“merde”(メルド)と言う。せめて、“caca”(うんち)とでも言えばいいのに、“クソ”としか思い浮かばず、先生はそこで大笑いしながら、
「犬の“フン”のことね!」
と、フランス語でフンとは“crotte”(クロット)であることを教えてくれた。

文法のテストの時は、隣に座ったアメリカ人が激しく貧乏ゆすりをするので、机がガタガタと動き、僕は必死で机を押さえながら問題を解いた。更に、彼女が落とした消しゴムを拾ってあげると、「Thanks!」と、(彼女の母語でもある)英語で言われたことにムッときた。世界中どこでも通じる国際語(と思っている)、英語(母語)で、英語圏ではないここフランスで、しかもフランス語を学びに来ているこのフランス語学校で、母語(英語)を押し通すのはアメリカ人だけだ。なぜメルシーと言えないのか!この混沌には帰国するまで付き合わされることになる。

第16話につづく

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